勤労者山岳会の誕生

日本勤労者山岳連盟(労山)は、2018年時点では全国に650団体、25,000人の会員が入会している大きな連盟組織です。団体名に「勤労者」がついていることにはなにか理由がありそうです。その成り立ちはどのようなものなのでしょうか。

労山の前身の勤労者山岳会とは、どのような経緯で発足した団体なのか、調べてみましたのでまとめます。『山 その日この人 (下)』(斎藤一男、2015年、論創社)より引用します。


勤労者山岳会の誕生

1960年5月、「広範な勤労者に健全な登山をひろめ、登山の真の大衆化をめざす」を旗印に掲げた「勤労者山岳会(労山:現在の日本勤労者山岳連盟の前身)」が創立された。”生みの親”は北アルプス・三俣蓮華岳や雲の平で山小屋を経営する伊藤正一であった。

(※記事の著者の注:伊藤氏は有名な『黒部の山賊』の著者。)

伊藤は、過酷な労働条件-低賃金、長時間労働、わずかな有給休暇-をおして小屋を訪れる勤労登山者の姿や遭難の頻発に心を痛めていた。

自問自答を繰り返したすえに辿りついた結論が”勤労者による勤労者のための山岳会”結成であった。

伊藤の要請に応じ、各分野の学者・文化人16人が発起人に名を連ねた。

(※記事の著者の注:発起人には、百名山の深田久弥氏、花の百名山の田中澄江氏、原爆の図の丸木夫妻などがいる。)

だが、勤労者山岳会の出現は、エリート意識と権威主義に浸ってきた大学山岳部出身者が牛耳るこの国の登山界に波紋を呼ぶ。ブルーカラーが押し寄せたら山が俗人化する等の批判。しかし、労山は広範な勤労登山愛好者の支持を集め、1963年7月には各地域名を載く労山を糾合し全国組織としての「連盟」に脱皮する。

以後、ヒマラヤの高峰の登頂者を輩出する一方、独自の遭難救済制度の創設(現在の労山基金)、山からゴミを一掃する運動(クリーンハイク)、全国雪崩事故防止講習会の定期開催といった先駆的な活動に取り組み成果を上げるにいたる。

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